2017

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい…もう、あなたのことが、好きではなくなったの」

 

 

ボクは動揺して、となりに小さく座る恋人の顔を覗き込んだ。

 

 

唇を噛みしめて涙をこらえているように見えた。

 

 

彼女はボクに目をやっていたが、彼女の目はどこか違うものを見つめている気がした。

 

 

「どうして」

 

 

ポツリと呟いてみたが、フラれる原因など自分がよくわかっていた。

 

 

 

 

 

ボクはいままで虚栄を張って背伸びして懸命に貫禄をつけようと生きてきた。

 

 

女に情けない姿を見せることを何よりも許せないと思っていた。

 

 

それが自分の生き方を窮屈にしていることも、彼女につまらない見栄を押しつけ、傷つけていることも知っていた。

 

 

それなのに愚か者は、愛されているという自信だけはあった。

 

 

彼女がボクのもとから離れるはずがないと過信していたのだ。

 

 

 

権利などないと承知の上で、ボクは別れを引き止めた。もしかすると責めるような言葉も口にしてしまったのかもしれない。

 

 

しかし彼女の意志はかたかった。ボクが何を言っても、首を横に振るばかりであった。

 

 

 

 

これまでの礼を言って、ボクは彼女の元を去った。

 

頰を伝う雨垂れを何度も何度も拭ぐいながら家路を歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

別れてしばらくは、風が沁みるような気分だった。

 

身体の中に穴が空いたようだった。あらためて彼女に依存していた自分を知ると、彼女がしてくれたことがひとつひとつ思い出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボクは酒場に身を置くようになった。

 

酒はボクの哀しみをヤンワリ流してくれるような気がして楽になれた。

 

眠れない夜も酒のおかげでどうにか横になれた。

 

 

二日酔いの朝は、迎え酒でごまかしたりした。

 

 

とにかく、ただ時間が通り過ぎていくには、酒ほど好都合なものはなかった。

 

 

 

死別でもなく、たかだか一人の女との別離である。わかっている分、そんなことで落ち込んでいるのか、と考えると逆上をおさえられなかった。

 

 

言うまでもなくボクの暮らしは荒(すさ)んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これを最後の一杯にして仕舞いにしたほうがよろしいかと」

 

 

テーブルの上のウィスキーのボトルをグラスになみなみと注ぐボクに、

 

バーテンダーの男は心配そうに言った。

 

 

「じゃかあしい」

 

ボクはグラスの酒を口に持っていったが、

 

すでに限度を超えているのか半分近くが胸元とテーブルに零(こぼ)れた。

 

 

バーテンはそれから黙った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

店を出て、ボクは繁華街を歩いていた。

 

路地には酔客が笑いながら歩いていた。

 

すこし足元が怪しいなか、ボクは彼らを避けながら歩いた。

 

 

 

その時、前方からきた男が、ボクの肩にぶち当たった。

 

当たる瞬間に肩をおおきく振って、わざとのように思えた。

 

 

「邪魔たい、気をつけんかい」

 

 

いきなり怒鳴ってきたのは、ぶつかった相手だった。

 

 

酔いもあって、頭に血が昇ったボクは、啖呵を切って罵詈雑言を浴びせた。

 

その時すでに手を上げていたかもしれない。

 

 

ドヤドヤと、男の仲間らしき男たちに囲まれた。ここではサツがくる、と誰かが言い出し、ボクたちは裏通りにむかった。

 

 

 

裏通りにある薄明かりのパーキングエリアは、彼らにとって最適な場所だった。

 

 

気づけば、顔も、腹も、背中も、殴られているのか蹴られているのかわからなかった。

 

終わりのほうは、さして抵抗もできずに、袋叩きである。

 

 

 

 

 

ことが収まると、駐車場には静寂がおとずれ、

 

ボクは独りあおむけに倒れていた。

 

 

『もう、あなたのことが好きではなくなったの』

 

 

耳の奥で声が広がった。

 

 

「情けねえなあ」

 

 

つくづく自分がつまらない者に思えてボクは苦笑した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お世話になっている兄貴分のKさんが、ボクのことを気にかけてくれて、深夜、自宅に招いてくれた。

 

Kさんはボクの腫れ上がった顔と、切れた唇を見ると、開口一番

 

「どうした、ひどい顔やな」と驚いた様子だった。

 

 

事情を説明すると、Kさんは腹を抱えて笑っていた。

 

 

「そっかそっか、まったく無茶するね。まあ、上がってくれ。一杯やろう」

 

「はい、お邪魔します」

 

 

Kさんは酒をたしなみながら、ボクのつまらない話をただただ優しく頷いてくれた。

 

いつも一丁前に酒場にいる、と言えば、

 

誘えよ、と返してくれてボクは嬉しかった。

 

 

部屋の窓を開け、Kさんはタバコの煙をくゆらす。月からまっすぐ降りてきた光がKさんだけを照らしていた。

 

 

 

「まあな、今はマイナスかもしれないな。けど長い目でみればきっとプラスになる。俺はイイ機会だと思うよ」

 

 

「そうですか」

 

 

「切ないことでもないと男は伸びないのさ。お前なら心配ない」

 

 

「袋叩きですよ」

 

 

「ハハハ、前言撤回、かなり心配だナ」

 

 

ボクたちは外が明るくなるまで、笑い合った。

 

笑ったのは久しいことだった。

 

 

後に知ったが、Kさんも長年寄り添った恋人と別れたばかりだったらしい。そんな素振りは一切見せなかった。

 

 

まったくボクは青二才である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鏡の中の自分に正直、戸惑いを隠せなかった。

 

ゲッソリと頰がこけてクマも酷い。

 

もともと細身であったが、食事をとっても味がなく酒ばかり飲んでいたせいで、痩せ細りに拍車をかけた。

 

浮き彫りになった肋骨、華奢になった腕にはさすがに虫酸が走った。

 

 

『もうあなたのことが好きではなくなったの』

 

 

もし彼女がたった今ボクの姿を見ればどう思うだろう、とふと考えた。

 

 

泥酔の挙句、見知らぬ男と喧騒(けんそう)になり、人の厄介になる。

 

みすぼらしいナリ。卑しい内面。

 

 

別れて正解だった、そう思うに違いない。

 

 

『きっとプラスになる。切ないことでもないと男は伸びないのさ』

 

Kさんの言葉がよみがえった。

 

 

 

ボクは鏡に映る姿に目を細めた。

 

そして声を荒げて言った。

 

 

 

「いい加減にしろ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

深酒を絶って生活はガラッと変わった。

 

 

夜な夜な見ていた、幻覚や悪夢にうなされることも少なくなった。

 

 

食事は無理をしてでも摂った。するとようやく味がみえてきた。

 

 

毎日ジムへ通ってカラダを鍛えなおした。

 

ダラシないものを絞るというよりかは、ひと回り、ふた回りもカラダを大きくつくりなおした。体重は十三キロほど増えた。

 

なぜかダンベルを持ち上げている間は、余計なことを考えずに済んだ。

 

 

また、収入や効率などは脇において

 

ホンモノの仕事をはじめた。汗を掻く仕事だ。朝から晩まで働くこともあった。

 

 

すると金は後からついてきた。

 

 

だんだんと時間の経過が、彼女との別離も受け入れさせてくれた。

 

 

ボクは忙(せわ)しない日々を、血反吐を吐くつもりでやってきた。

 

 

 

 

 

 

ある朝、目覚めて携帯電話に目を落とすと、一件の着信履歴があった。

 

それは、別離した彼女からのものだった。

 

 

 

別れてから音沙汰なし、あれから半年が経っていた。

 

にもかかわらずボクはなぜか妙に落ち着いていられた。

 

 

 

ボクは別離を味わってから、

 

一定の覚悟なしに接近しすぎることの傷の痛さをよく承知していた。

 

もちろん他人を傷をつけてしまうことも。

 

 

それに皆とはいくらかちがって、ボクは孤立そのものに慣れ親しんでいるところがあった。

 

 

人恋しさや、お互い労わりあいたい気持ちは募っていたけれど、

 

やはりにんげんに深くかかわりすぎる怖さも知っていた。

 

 

 

電話は誤ってかけたものだ、とこちらで処理しようとした。

 

 

 

一日中考えた。

 

 

 

しかしボクは、前みたく、また虚勢を張っていることに気がついた。見栄をつかって自分に嘘をついている気がした。

 

 

 

 

ボクは一文を送った。

 

 

『お元気ですか』

 

 

返事はすぐに返ってきて、何通か文章のやりとりが続いた。

 

 

日に日に、文字から肉声に変わった。

 

 

その日の電話は、どちらとも、おやすみなさいの一言がなかなか言えず、長いあいだ続いた。

 

 

ボクは電話を繋げたまま、クルマを走らせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ひさしぶり」

 

 

夜風といっしょに、彼女が車内に入ってきた。

 

うつり香が鼻について懐かしさがあふれた。

 

 

ボクはうなずいた。

 

 

「元気そうで、よかった」

 

 

どうにか平然を装って、談笑した。

 

 

だんだん装う必要も、ぎこちなさも無くなった。

 

 

 

 

「わたし、あれから自分の選択が、ずっと間違ってたように思えた」

 

 

彼女が言った。その声は哀しいような、切ないような憂(うれ)いを含んだものに聞こえた。

 

 

 

「ずっと間違えていたのはボクの方さ。酷いことをしてしまった」

 

 

彼女は首を横に振った。

 

 

彼女はボクに目をやっていた。その目はちゃんとボクを見据えてくれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボクたちはどちらからともなく抱き合った。

 

 

鼻の奥が熱くなり、涙がぽろぽろとひとりでにこぼれ落ちた。

 

 

涙に気づかれないように、ボクは滑稽な顔をしておどけてみせた。

 

 

「顔がぐしゃぐしゃだよ」

 

 

彼女が白い歯をみせて笑った。

 

 

「こっちのほうが男前だろう」

 

 

ボクも声をたてて笑った。

 

 

 

 

 

 

 

安堵に似たボクの滑稽な表情と、

 

 

笑み崩れた彼女のまぶしい顔を、

 

 

月明かりは、いつまでも照らし続けてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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